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カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第33主日



写真は今回も福島ではありません。
母を連れて行った公園の紅葉があまりにきれいだったので・・・。
(「もみじばふう」または「アメリカふう」という名前の木です)

●年間第33主日、貧しい人のための世界祈願日
 聖書箇所:ダニエル12・1-3/ヘブライ10・11-14, 18/マルコ13・24-32
            2021.11.14カトリック原町教会
 ミサのはじめに
 フランシスコ教皇は2017年から毎年年間第33主日を「貧しい人の日」と定め、今年はその5回目になります。日本では「貧しい人のための世界祈願日」と言われていますが、本当は「世界貧しい人の日world day of the poor」です。貧しい人のために祈りましょう、ではないのです。本当の意味で貧しい人とともにいること、共に生きること、「互いの分かち合い」がテーマなのです。そのことを受け止めながら、今日のミサを祝いましょう。

 ホミリア
 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
 今日の福音のこの言葉は、世の終わりについての聖書の教えの大切なポイントを示しています。世の終わり=終末についての教えは不安や恐怖心をあおって、人々をコントロールしようとするようなものではありません。すべてのものは滅びても、決して滅びないものがある。その滅びないものとは何か、と問いかける。そして、その滅びないものを大切にして歩もう、という呼びかけなのです。

 今日の箇所ではそれは「わたしの言葉(logoi=logosの複数形)」だと言われています。イエスの教え、イエスの告げ知らせた福音全体のことでしょう。マルコ福音書では最初の部分にこの福音がまとめられています。
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)
 神は決してあなたがたを見捨てていない。神は王として、あなたがたを救いに近づいてきてくださっている。だからその神に心を向け、神に信頼して自分を委ねていきなさい。
 あるいはこうも言えるでしょうか。「神はすべての人のアッバAbba。すべての人を無条件にいつくしまれる父であり母である方。わたしたちは皆、その神の子として生きるように、そして、互いに兄弟姉妹として生きるように招かれているのです。」
 さらにまた、使徒ヨハネならこうまとめるでしょうか。「神は愛。人間を愛し、愛のゆえにご自分のひとり子を与えつくされた。この愛を知ったわたしたちは互いに愛し合おうではないか。」
 本当に滅びることないイエスの言葉にいつも結ばれて生きることができますように。

 さて、今日は「世界貧しい人の日」。今年の教皇メッセージで触れられている福音書の箇所の一つはマタイ6・19-20でした。
 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」
 この箇所に関して、教皇はこうおっしゃいます。
 「イエスの弟子になるということは、地上には宝を積まないという選択をすることです。地上の宝は、実際には もろくはかない、安心の幻想を与えるだけのものです。それよりも、永遠なるもの、何にもだれにも壊されることのないものを見極めるために、真の喜びと幸いに至るのを妨げるあらゆる束縛から自らを解放する意欲が必要なのです。」
そういう意味で、富を手放すこと、貧しい人に差し出すことが求められています。しかし教皇は、いわゆる「施し、慈善、チャリティー」を無条件に良しとしているのではありません。もっと大切なのは「互いの分かち合いmutual sharing」だと言います。持っている人が、困っている人に何かを与える、というような関係ではなく、持っている人は持っていない人と持っているものを分かち合い、同時に、貧しい人の持っている素晴らしいものを尊重して、互いに分かち合う。そのためにはまず貧しい人と「出会うこと」だと教皇は言います。貧しい人に「出会うために」待っていたらダメだ。「出ていく」ことが必要なのだとおっしゃるのです。厳しいですね。

 ところで、11月1日から12日までの予定で、COP26(第26回気候変動枠組条約締約国会議)が開かれていました。各国の政治家がいろいろと議論していますが、なかなか合意に至らず、一日延長されてようやく合意文書ができたそうです。しかし、会場の外には、より徹底した対策を求める若者たちの姿がありました。改めて気候変動、地球温暖化、CO2削減などの問題・課題の大きさを考えさせられています。そこにあるのは未来の世代との不均衡という問題です。今のわたしたちがこのまま豊かさを享受していれば、将来の世代にとんでもないツケが回されることになる。ここにも格差・不均衡の問題があります。ここでも、今のわたしたちは将来の世代と地球の豊かな恵みをどんなふうに分かち合いができるのか、本当にそれを問われているし、誠実に答えなければならないと思います。

 人間らしい生活をするのに最低限の必要なものにも事欠く人々がいます。衣食住だけでなく、教育や保健衛生、家族のつながり・コミュニティーとのつながりなど、あらゆる面での豊かさをその人々の上に実現させていくという大きな課題があります。
 でも、そういうことだけがイエスの言葉、イエスの福音の世界ではありません。今年のメッセージの終わりのほうで、教皇はこうおっしゃいます。
 「『わたしたちも貧しいのです』――わたしたちがそう本気でいえたなら、それはどんなに福音的なことでしょう。」
 わたしたちキリスト者にとって、貧しさとはただ単に克服すべき問題ではありません。
 「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6・20)
とイエスはおっしゃいました。パウロはこうも言いました。
 「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(IIコリント8・9)。
 イエスが貧しくなられたように、わたしたちも貧しくなる、それはすべてのキリスト者が招かれている道です。現実の世界に貧しい人がいる以上、わたしたちはその貧しさをどう分かち合い、どうしたら本当に貧しい人と兄弟姉妹になれるか、「貧しく生きるとはどういうことか」。司教・司祭であろうと、修道者であろうと、信徒・求道者であろうと、みんながその問いかけの前に立たされていると思います。
 わたしたちが滅びることのないイエスの言葉をしっかりとどまり、それぞれの立場で、それぞれの仕方で、貧しく生きることを求め続けることができますように。アーメン。


年間第32主日



11月は伝統的に死者の月と言われ、カトリック原町教会では、主日のミサの中で亡くなった方々を追悼しました。
画像は関係ありませんが、カリタス南相馬のメダカたち。新たないのちが生まれています。

●年間第32主日
 聖書箇所:列王記上17・10-16/ヘブライ9・24-28/マルコ12・38-44
            2021.11.7カトリック原町教会
 ホミリア
 11月は死者の月、今日このミサの中で、亡くなったわたしたちの家族、親戚、友人、知人を思い起こして、その方々のために祈ります。今日から3回の主日は終末主日とも言われます。「死者の月」「世の終わり」というテーマはキリスト信者でない人にはわかりにくいかもしれません。教会の掲示板の聖句は、ふだんはその月のミサの聖書朗読の中から選んでいますが、今月はそうでない箇所を選びました。パウロのコリントへの第二の手紙からです。
 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(IIコリント4・18)
 目に見えるものは過ぎ去ります。形あるものはすべて滅んでいきます。わたしたちの肉体も、持ち物も、すべてはいつかなくなってしまうものです。それに対して、目に見えないものは永遠に存続する、とパウロは言います。この言葉は信者でない人にも何か伝わるものがあるのではないかと思いました。

 永遠に存続する「見えないもの」とは何でしょうか。
 まず第一にそれは神ご自身です。わたしたちが信じている神は目に見えない方であり、永遠の方です。その神とのつながりをもって生きる生き方を「信仰」と言います。わたしたちは皆、限りある人間ですが、永遠の方によって存在させられ、永遠の方に生かされ、導かれ、永遠の方のもとに帰っていく。その永遠の方とのつながりは何があってもなくならない。それを永遠のいのちとか天国と言うのです。神とのつながりを信じているわたしたちは、死はすべての終わりではなく、死を超えて神とのつながりは完成すると信じています。そしてそう信じるから、この世のいのちに意味があると感じることができるのです。

 永遠に存続する目に見えないもの。それは愛する人とのつながりでもあります。わたしたちは身近な人・親しい人が亡くなったとき、どうしようもない喪失感を味わいます。その人がもういない、という現実に打ちのめされます。でも、その人たちとのつながりは本当はなくなっていない、とどこかで気づくことがあるでしょう。目で見ることも、手で触れることもできないのですが、わたしたちはその人たちのために祈ることができるし、その人たちは神さまの元からわたしたちを見守っていてくれる、わたしたちのために祈っていてくれる。心の中に生き続ける。教会のいわゆる聖人たちだけでなく、亡くなったすべての人とわたしたちは今もつながっているのです。

 永遠に存続する目に見えないもの。聖書によればそれは何よりも「愛」です。コリントの第一の手紙13章でパウロははっきりと言います。
 「愛は決して滅びない。」
 「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(8, 12-13節)
 世の終わりでしょうか、人生の最後の時でしょうか、そのときに起こることは神と「顔と顔とを合わせて」決定的に出会うことです。そしてそのとき、わたしたちは自分が生きてきて、何が本当に価値のあるものであったか、何が永遠の価値を持つものであったかをはっきり知るようになるというのです。すべてのものは滅んでも、決して滅びない永遠の価値を持つもの、それが「愛」だというのです。
 パウロがそう確信するのは、イエスの愛を知っているからです。イエスという方がとことん愛を持って生き、愛のためにご自分のいのちをささげ、死に打ち勝って、復活のいのち・神の永遠のいのちを生きるものとなった。それを知っているから、パウロは「愛は決して滅びない」と宣言するのです。
 そこから実践的な目標が出てきます。それはあのイエスのように、愛を生きるという目標です。愛においてどうしようもなく不完全な自分を知っていますが、それでも、少しでもイエスの愛に近づいていきたいのです。

 ふだんわたしたちは「死」のことや「世の終わり」のことをそんなに考えずに生きているかもしれません。死や終末のことばかり考えるよりも、そのほうが健全かもしれません。しかし、亡くなった方、親しかった故人のことを思うことも大切なことだと思います。目に見えるものを追い求め、あるいは、目に見えるものに振り回されているところから、ちょっと離れて、目に見えない永遠のものに心を向け、そこから今を見つめ直すことができるからです。

 今日は福音の箇所の話をしてきませんでしたが、今日の福音では人々に向けられたイエスの眼差しが印象的です。
 律法学者に向けられた厳しい目と、貧しいやもめに向けられた温かい眼差し。
 「顔と顔を合わせて」神と出会う、イエスと出会う。そこには厳しい裁きの面もあります。「地獄」とは愛のまったくない状態のことだと言われます。人からの評価や、人間的な力のあるなしに関係なく、神はわたしたちの内面を、目に見えない部分を見ていてくださる。その神の眼差しの中で、永遠のもの、滅びないもの、真実のものを求めて生きることができるように、その大きな呼びかけを今日、しっかりと感じ取りたいと思います。
 そして、このミサの中で、亡くなったわたしたちの家族、友人、恩人、知人の方々をいつくしみ深い神の眼差しにゆだね、その方々が永遠のいのちの喜びを味わうことができますように、心を込めて祈りたいと思います。

 もう一度パウロの言葉を思い起こしましょう。
 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
 「愛は決して滅びない。」「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」アーメン。
 

年間第31主日



おとなり宮城県亘理の郷土料理「はらこ飯」は今が季節です。
釜石からいらしたH神父さんを歓迎して、初めて作ってみました。
なかなかおいしくできました。
漬物はもちろん三五八漬けです。

●年間第31主日
 聖書箇所:申命記6・2-6/ヘブライ7・23-28/マルコ12・28b-34
          2021.10.31カトリック原町教会
 ホミリア
 キリシタン時代のポルトガル語の辞書で、ラテン語のカリタスにあたる言葉が「ゴタイセツ」と訳されていたことを皆さんはご存知だと思います。「神の愛=ゴタイセツ」とは「神が人間を限りなく大切にしてくださること」。「大切」という日本語はもともと「大いに切迫する」という意味の言葉で、それが次第に今のような意味に変わってきたと言われますから、もっと簡単に愛とは「大事にすること」だと言ってもいい。
 「神を大事にすること、人を大事にすること」。この二つのことが最も重要だという点で、イエスと律法学者の間に意見の対立はありません。今日の福音の箇所でもそうですし、善きサマリア人のたとえ話の導入となった対話でもそうでした。
 神を大事にし、人を大事にして生きる。これがわたしたちにとってもっとも大切なことです。ふだんはこの二つのことは両立できると思います。しかし時として、この二つのうち、どちらを優先するのか、と問われるような場面もあります。今回のコロナ・パンデミックは、まさにそういう場面だったのではないでしょうか。
 わたしたちは神を大切にするために祈ることや聖書を読むことを大切にしてきました。さらに主日に教会に集まってミサをささげることを本当に大切なことと考えてきました。そのことが神を大切にすることだと信じてきました。しかし、わたしたちは、新型コロナウイルス感染症の流行を抑えるために、ミサに集まることをやめました。それは人間を大切にすること、人の命を大事にすることを優先するためでした。
 究極のところで、人を大切にすることが、神を礼拝することよりも優先されルべきだ。そのことをはっきりと考えさせられたのが、今回のコロナでした。

 わたしたちはイエスが安息日に病人をいやしたことを知っています。
 それは当時のユダヤ社会の中でどれほど衝撃的なことだったでしょうか。
 「主はモーセに言われた。あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。これは、永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたからである。」(出エジプト記31・12−17)
 このような箇所から、安息日の掟を守ることが神を大切にすることだと当時のユダヤ人たちは信じて疑いませんでした。しかし、イエスは問いかけます。
「安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(マルコ3・4)
 明解です。神を大切にするとは、安息日の律法を守るよりも、目の前の助けを求める人に手を差し伸べることなのです。

 フランシスコ教皇は回勅『フラテッリ・トゥッティFratelli Tutti』の「第2章 道端の異邦人」で、ルカ福音書10章の善きサマリア人のたとえ話についてていねいに語っています。その中でこう言います。
 「74 離れて通り過ぎる人には、無視できない点があります。宗教者であるということです。さらにいえば、神への礼拝に従事する者、祭司とレビ人だったのです。これは、神を信じ、神を礼拝することが、神を喜ばせる生き方を保証するわけではないことを示しています。」「聖ヨハネ・クリゾストモは、キリスト者である聞き手に向かって、このことを鋭く言い表しました。『キリストのからだを本当に尊びたいのですか。裸のキリストを見ても見下してはなりません。外では、裸のまま寒さに苦しむそのからだを見捨てておきながら、聖堂で絹の衣をまとって、キリストのからだをたたえてはなりません』。」(一部私訳)
 ここでもあまりにも明確です。神を大事にすることは、聖堂で礼拝することではなく、人間を、特に最も貧しく苦しんでいる人を大事にすることなのです。
 
 主日のミサの第二朗読でずっと読まれているヘブライ人への手紙の中にも大切な教えがあります。
 ヘブライ人への手紙は、今日の箇所でもイエスを大祭司と呼びます。エルサレムの神殿の祭司と違い、イエスは十字架の上でご自分を唯一完全な永遠のささげものとしてささげて、人々に決定的な救いをもたらした。だからもはや動物のいけにえはいらないといいます。そして、ヘブライ人への手紙の結びにはこういう勧告があります。
 「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。」(ヘブライ13・15-16)
 わたしたちが神を大事にする、その一つの仕方は賛美と祈りを捧げることだと言いながら、もっと究極的には「施し」、今で言えば苦しむ人を助けること、人を大事にすることこそが神を大事にすることだとはっきり教えています。その根拠は、イエスがわたしたちの兄弟となり、わたしたちを助けるため、あらゆる点でわたしたちと同じように試練にあわれ、苦しまれたからなのです。

 さてわたしたちは今日、こうしてミサに集まっています。わたしたちがミサをするのは、このイエスに結ばれるためです。また、イエスが「アッバ」と呼んだ、すべての人をいつくしまれる神に結ばれるためです。そして本当に神と人とを大切にする心を養われ、神と人とを大切にして生きる力をいただくためです。
 いつかまたコロナの第6波が来て、ミサに集まることができなくなるかもしれません。だからこそ、本当に今日のこのミサの恵みに感謝して、愛の力をこのミサからいただいていきたいと思います。



年間第30主日



写真は福島県内ではありませんが、あまりにステキなコスモス畑でしたので・・・

●年間第30主日・世界宣教の日
 聖書箇所:エレミヤ31・7-9/ヘブライ5・1-6/マルコ10・46-52
           2021年10月24日カトリック原町教会
 ホミリア
 今日の福音はバルティマイの物語です。
 イエスはエルサレムへ向かう旅の途中、エリコの町を出ていく時に、彼に出会いました。彼はエリコの町の城門のところに座っていたのでしょう。貧しく、目が不自由なため、物乞いをして生きていました。なんとかお金をもらおうとして、道行く人々に向かって「わたしをあわれんでください」と叫び続けていました。多くの人々は彼のことをうるさいと思い、叱りつけて黙らせようとしました。周囲の人から見たら、彼は価値のない人間でした。イエスさまのような重要人物に比べたら、まったくどうでもいい、邪魔者と言ってもいいような存在でした。
 その彼にイエスは目を注ぎます。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んできなさい」と言われます。彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来ます。
 この箇所からバルティマイの喜びが伝わってきます。
 「上着を脱ぎ捨て」この上着は外套のようなものと考えられます。普段の生活ではあまり必要がありませんが、野宿をするような時はそれにくるまって寒さをしのぐ、必需品でした。おそらくこれはバルティマイにとって唯一の財産であって、彼はそれだけは決してなくさないように、いつも肌身離さず握りしめていたことでしょう。でもその上着を放り出してイエスのもとに行きます。しかも「躍り上がって」。目の見えないバルティマイは普段は転んだり、ものに躓いたりしないように慎重に行動していたでしょうに。もう彼は財産も身の安全も放り出すかのように、イエスのもとに行くのです。
 それは「イエスが呼んでいてくれる」と知ったからです。
 他の人々すべてから邪魔者扱いされる中、イエスだけはそうではなかった。バルティマイが受け取った福音とはこういうものだったと言えるのではないでしょうか。確かに最後には目が見えるようになりました。でもそれはある意味、結果であって、本当に彼の人生を変える出来事はその前に起こっていたと思います。イエスが彼に声をかけ、彼がそれに気づいて、その呼びかけに答えたこと、それがバルティマイの物語の中心だと思います。

 今日は「世界宣教の日World Mission Day」で、今年の教皇メッセージを読んでいたら、「周辺部」という言葉が心に響きました。英語では「peripheries」という言葉でした。辞書を見ると、「周辺部=物事への関与の薄い周辺的な立場のこと」というような意味だとあります。今日の福音のバルティマイは、まさに「周辺部の人」でした。
 教皇は、周辺部は都市の只中にも、家庭の中にもある、と言います。そして、わたしたちは皆、やり方は違っても、その周辺部に出かけていくよう、呼びかけられている、ともおっしゃいます。回勅“Fratelli Tutti”97でもこの周辺部のことが語られていて、「この社会で苦しみ、見捨てられ、ないがしろにされている兄弟姉妹」の例として、「人種差別を受けている人」「障害者」そして「高齢者」のことが挙げられています。

 わたしたちは誰でも一度や二度、自分は周辺部にいると感じた経験があるかもしれません。自分の居場所がないように感じる。自分は本当にこの社会や団体の中に居場所があるのか、何かの役割があるのか、誰かに必要とされているのか、生きているのにどんな意味があるのか。
 どうでしょう。そのように感じた経験はありませんか。
 わたしはあります。人生の中で何度か、強烈に、自分が周辺にいると感じたことがあります。そしてその中で、イエスの呼びかけを聞くことができました。すべての人からいらない人扱いされる中で、自分でも自分が何のために生きているのか、分からなくなるような中で、イエスだけはわたしをかけがえのない大切な存在と見て、このわたしに声をかけてくれた。そう感じられたら、そこにこそ救いがあります。
 「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」バルティマイに言われたこの言葉は直訳では、「勇気を出しなさい。立ちなさい。あの方があなたを呼んでいる」です。わたしたちのミッションはこの言葉を届けることだと思います。わたしたち自身が受け取った言葉なのですから、なんとかこれを伝えたいのです。自分自身がイエスの呼びかけを受け取ったのですから、イエスの呼びかけを伝えたいのです。

 さて今日、このミサの中で、昨年4月15日に帰天された岩井淑子さん(92歳)の追悼の祈りをします。コロナが落ち着いて、ようやく今日、娘さんがご遺骨を持って来てくださいました。
 2011年7月、わたしは震災後初めて原町教会に来ました。そこで梅津神父さんに出会い、「東京・横浜のわたしたちにできることがあるでしょうか」と聞きました。すると梅津神父さんは、「ミサに参加する人が減ってしまっているので、できれば来て一緒に祈ってほしい」と言われたのです。それからCTVCカトリック東京ボランティアセンターやわたしの原町教会との関わりが始まりました。そんなことを、わたしは岩井さんのいる東京のある地区の教会の集まりでお話しするチャンスがありました。すると岩井さんは、「わたしには泥かきや瓦礫拾いはできないけれど、ミサにあずかることならできる」と言って、毎月一度、娘さんの運転する車に乗って、この教会のミサに通ってこられるようになりました。最初は常磐自動車道も通じておらず、原発周辺の国道6号線も通行止めで、とんでもなく遠回りをして、来られていました。娘さんは原町教会のオルガニストもしてくださいました。娘さんは本当にたいへんだったと思います。
 東京から見れば、福島県浜通り、原発事故の被災地というのは、とんでもない周辺部だと言えるかもしれません。ここを訪問し続けたのは岩井さんがイエスの呼びかけを感じたからでしょうし、その岩井さんとの出会いをとおして、わたしたちもイエスの眼差し、イエスの呼びかけを感じさせていただきました。この出会いに感謝しながら、岩井淑子さんが神のもとでの永遠の安息を味わうことができますように、祈りましょう。


年間第29主日



グリコの牧場しぼりアイスクリームですが、
この「バスク風チーズケーキ」は南相馬市の松永牛乳で作っています。
全国のスーパーやコンビニで手に入るようなので、探してみてください。

●年間第29主日
 聖書箇所:イザヤ53・10-11/ヘブライ4・14-16/マルコ10・35-45
            2021.10.17カトリック原町教会
 ホミリア
 10月になってもずいぶん暑い日がありましたが、季節は秋です。わたしが神学生だった頃、東京の神学院では毎年秋に「神学院祭」というのがありました。神学院は神学生が生活している場所ですから、普段、外部の方は立入禁止ですが、年に一度その祈りと勉強と生活の場を見ていただき、神学生のことを知っていただき、神学生を支えていただく。それだけではなく、子どもや青年たちに一生を捧げて神と人々のために生きるという司祭の道があるんだということを知ってほしい。・・・それで神学院祭には子どもコーナーもあり、いろいろな出店のようなものも準備していました。ある年「金魚すくい」がありました。それをある神学生が冗談で「金魚救い」と書いたのです。みんな笑っていましたが、わたしはそれを見て真剣に悩みました。金魚すくいですくわれた金魚は果たして救われるのだろうか?それとも網にかからずにいた金魚のほうが救われたのだろうか?
 そもそも、イエスはペトロたちを「人間を取る漁師にしよう」と言って呼び出したけれど、人を救うというのは魚を掬い上げるようなことなのだろうか? 確かにどこかで「救い」のイメージとして、上から引っ張り上げて天国に入れてもらうイメージがあるのではないか。しかし、それは本当にイエスのやり方だったのだろうか?

 今日の聖書箇所を読みながら、そんな疑問を思い出しました。
 今日の聖書朗読には本当に大切な救い主の姿が表わされています。
 第一朗読のイザヤ書は「苦しむ主のしもべ」の箇所です。主のしもべは人々の罪を自ら負う、と言われます。罪の結果である苦しみや悲惨さを自分の身に負うということですね。
 第二朗読のヘブライ書で、イエスは大祭司と呼ばれていますが、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」とあります。ここでもあらゆる点で、わたしたちと同様の試練にあった、わたしたちの弱さも苦しみもすべて共にされたというのです。「罪は犯されなかった」と言いますが、ここで言う「罪」とは神との断絶のことです。あらゆる点でわたしたちと同じようになられた。しかしあのイエスには神との断絶がなかった、ということも大切にされています。
 そしてマルコ福音書は、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」という決定的な言葉です。「仕える」は人に奉仕する、サービスする、という面もありますが、それだけでなく、自分を低くする、自分を無にしていく、という面もあります。
 イエスが人を救うやり方は、金魚掬いみたいに、上から人を救い上げるのではない。イエスはわたしたちに近づいてきて、わたしたちの重荷を共に担い、わたしたちの苦しみを共に味わい、本当の意味でわたしたちの兄弟として、わたしたちと共に歩んでくださったのです。そこにこそ救いがあります。
 「共に歩む」というのは今日から始まるシノドスの歩みのテーマですが、何よりもイエスご自身がわたしたち人間とともに歩んでくださった。その原点をまず思い起こしたいと思いました。

 カトリック教会で最も大きく重要な会議は「公会議」です。今から59年前、1962年にヨハネ23世教皇によって第二バチカン公会議が始められ、現代世界の中でカトリック教会のあり方が大きく変わり始めました。公会議は1965年に終了しましたが、その後、パウロ6世教皇によって「世界代表司教会議」が始められました。世界各国から司教の代表が集まって数年に一度重要な課題について話し合うものです。この会議は古代からの伝統に基づき、「シノドス」という名で呼ばれます。「sym (共に)」「hodos (道)」から作られた言葉で「共に歩む、共に旅する」という意味です。その名の通り、世界中から司教の代表が集まり、世界中の人々の声を集めて、重要な課題について話し合うのがシノドスです。
 そして次のシノドス、第16回通常シノドスが2023年10月に開かれることになりました。正確には、今年から2年かけてシノドスの歩みをしていこうということになりました。テーマは"For a synodal Church: communion, participation and mission."(日本語では「ともに歩む[=シノドス的]教会のため——交わり、参加、そして宣教」)となっています。つまり、「シノドス的であること=共に歩むこと」そのものがテーマになっているのです。
 先週10月10日にバチカンでフランシスコ教皇によるシノドス開始ミサが行われました。そして今日、世界中の教会でシノドスの歩みを始めるように呼びかけられています。司教たちが共に歩むだけでなく、すべてのカトリック信者が歩むのです。

 ですから大切なのは2年後にローマで行われる会議を成功させるというようなことではありません。この2年間を通して、わたしたちが本当に「共に歩む教会」になっていくこと。そのためにいくつかのポイントがあります。
 まず、聖霊の自由な働きに対する信頼。わたしたちは神の霊が今も人類と教会を導いていると信じています。人の思いを遥かに超えて、すべての人のうちに働かれる聖霊の働きに信頼します。そして、共に旅することに、すべての人が参加する教会でありたい。特に片隅に追いやられた人々が参加できる教会でありたい。これまで、聖職者中心だった教会の中で、声を押さえつけられてきた人々の声に耳を傾け、その人たちがきちんと参加できる教会になる。また、福音に反する動きを見極める。教会の中にもそういう力が働いていないか? だとしたらどうやって社会の中で再びいやしや和解のしるしとなることができるか? どんなことを話し合っていくかというと、「10のテーマ別要点」というのがありますので、プリントをごらんください。仙台教区でもっと具体的な話し合いの呼びかけが始まれば、それに応えていきたいと思います。

 そこでもう一度、金魚すくいの問題に立ち返る必要があるのではないかと感じています。教会というものが、あるいは聖職者(司教・司祭)というものが信徒を上からすくい上げてくれるようなイメージがどこかにまだ残っているのではないか。教会や司祭が上から恵みを与える、というのもどうか。実はそういう考えがえこひいきや弱い立場の人の排除、パワーハラスメントと紙一重だったりします。「一緒に歩む中にこそ救いがある」。これはこの10年間、東日本の被災地の教会のわたしたちが経験してきたことでもあります。
 この2年間のシノドスの歩みをとおして、そのことを本当に深めていくことができますように。アーメン。